川畑秀雄物語

川畑秀雄氏
川畑秀雄プロフィール

1969年1月20日、横浜生まれ、貧しい家庭で、父から当時の呼び方で、 虐待、今私の解釈で「試練」を受けた。

小学校時代

小学校の頃から母親の新聞配達を手伝い、自ら商いを起こす。
夏は深夜2時3時に起きて、森に入り野犬やすずめ蜂や蛇と遭遇しながら、 気合いを入れカブトムシやクワガタ取りに夢中になり、ペットショップや近所の同級生に販売する。

アルバイトに明け暮れた中学校時代

中学に上がると、年齢をごまかして深夜コンビニ弁当工場でアルバイトに明け暮れる。
昼はテニス部で、夢中で部活に取り組み、神奈川県で一番怖いと言われた超厳しいテニス顧問の先生に みっちり3年間指導されました。 普通に毎日ビンタは当たり前で、練習も毎日10キロランニングと 校庭2周うさぎ跳びなど、朝の練習集合時間は、6時からテニスをしていました。
午後授業が終わると19時まで部活をやっていて、神奈川県でもテニスで全国大会に出る常連中学校です。
当時私の睡眠時間は、1時間から3時間あったか記憶にないくらいでした。
授業を受けたというより記憶がないということは、その時きっと睡眠学習をしていたのでしょう。(笑)

中学2年、3年と千葉県白浜で軟式テニス全日本ジュニア大会に出場。2年生からレギュラーでした。
大韓民国・中国・インド・フィリピン・日本全国の強豪とテニスをしたことが楽しい思い出です。
また、中学時代勉強をした記憶がないというのか勉強には向いてなく、社会勉強には向いていました。
中学時代の頃から毎週水曜日は学校を遅刻してでも優先順位は、宮尾すすむの「日本の社長」を見て 必ず日本で何か大きなことを成し遂げる社長になろうと決意していました。
中学当時思ったことは、猫も杓子も大学に入って大手一流企業に就職して、大手社長になるのには時間がかかるし、 おじいちゃんになった頃は社長になるのであれば、どうせ人生一度きりだから、 失敗してもいいから貯金を500万円貯めたら社長をやろうと決心していました。

高校時代。川畑プランニングの立ち上げ

高校は定時制を選び、昼は調理師専門学校で調理師を目指す。
数々のアルバイトを経験後、 18歳で貯金が500万円貯まり独立。
川畑プランニングを立ち上げ、シャッターにフィルムを貼る仕事を始めました。
商店街や、パチンコ店・旅行店・宝石店など数々の店舗専門に飛び込み、仕事をありがたくいただき、 お客様の満足以上の感謝される仕事を心がけてやりました。
次第に次々に仕事が入り従業員も雇い順調にいきました。
その後調理の経験を活かし、当時はまだ全国に30店舗規模の「大手とんかつ店」のアルバイト募集チラシを見て、マイカル本牧店でアルバイトを始めました。
店長がオープン3ヵ月目ぐらいで突然いなくなり、私がアルバイト責任者として任され、 肉、野菜などの食材の発注からアルバイトの教育、社員、パートアルバイトのシフト管理まで、 店長と同じ仕事をしていました。
当時観音様のような不思議な人と良く言われました。いつも燃えていたので当時漫画で流行っていた 「燃えるお兄さん」とも言われていました。
お店を任せられてから売り上げがグングン上がり、全国のとんかつ店でなんと、当時坪数その他含め一番の売り上げ店になりました。
朝から夜22時まで行列が絶えないお店になりました。

ただ今思えば、仲間と同じ目標と志をもち、また本部の方々の大きな現場に対するサポートや、 励ましの声が当時の私たちの心を動かしたのだと思います。
また社員にもならないかと言われましたが、 私も会社社長をしていたので、お断りしました。

その時期に、母に「癌」があることがわかりました。

突然の深い悲しみ

私は深い悲しみに襲われ、元気な姿しか知らない母が突然、弱り果てた姿になっていくのを見て、毎日心で泣いていました。
母が余命数カ月と聞き、すべての仕事を辞め、看病することに決めました。
看病から1年後、母は帰らぬ人になり、天国に逝きました。ショックで何もできない時期が数カ月続きました。
ある日母が枕元に立ち、「ひでおは仕事が大好きでしょう。お客様のために何か役に立つことをしなさい。」と言われました。

その後FCハンバーガー店、店長となり地域NO.1にもなり、もう一度独立を決意。
短期でお金を貯めるため大手宅配業社に就職しました。
(私の著書「七人の大逆転人生」には記載されていません)当時、面接人数20,000人。 5次面接まであり、就職するまで面接から半年かかりました。
合格者50名の中にも入り、地獄の江の島研修を経て、「相模原営業所」に配属になりました。
2年半働いた頃、FCハンバーガー店オーナーから現在運営中のお店を買ってくれないかと話がありました。
業界用語でテイクオーバー(既存店中古物件)大赤字のお店を中古で200万円で手に入れ、大手宅配業社を円満退社しました。

再出発。そして成功と挫折

ハンバーガー店オーナーとして再出発。
お店を活性化させ、売り上げは3ヶ月後に2倍、半年後当初の売り上げの3倍以上になり、 キャンペーンでも1位達成し、接客サービスから商品、お店の清潔さでも地域No.1になりました。

その頃、大手不動産業社「不動産業・外食事業・ゴルフ場・レジャー産業」をやっている会社会長と知り合い、意気投合して、毎日銀座、六本木で接待され 会長からうちの会社の社長をやらないかと言われました。
そして宮城県にある豪邸とベンツ数台を用意され、給料もかなりいい条件で、 26歳の当時の私は、大きな財力と会社社長の肩書に負け、雇われ社長を5年間やりました。
その5年間で現場の人材教育も任され、主に外食産業とレジャー産業を任され、 数々のFC本部に出向き、「Mバーガー数店舗、中古買取ガ●バー、中古ファミコンショップドキドキ冒険島、セブンイレ●ン、AM●M、 オリジナル店舗ブラントリサイクルショップダイアナ、オリジナルパチンコ店ローズガーデン、 オリジナル中古車販売ビッグボス・オリジナル車検専門宮城アクセル」など数々の事業を大きく展開、 従業員も増やし、各部署の責任者の教育を実行して利益の上がる経営を達成しました。
5年間で関連会社取締役3社を経験しました。

ある日、魔がさし個人的に先物取引に手を出し、あっという間に2億円の借金をつくってしまいました。 世の中簡単に2億円という借金になるんだぁ〜と感じました。 私個人でやっていた事業物件も手放し、多少返済したが全然間に合わなく、仕事が手に付かない状態と、 いろいろなことがあり、会社社長を辞任(会長は辞任をとめましたが、私自身の心が・・・)。
ワゴン車1台に布団を積んで、仙台から上京、横浜で冷凍食品倉庫派遣アルバイトをしました。 当時タンスボックス2段重ねの上に布団を敷いて1年半暮しました。

ひたすらに仕事を励む日々

その後、ひたすら成功を目指しました。
中華宅配店の元住吉店に就職。1週間後店長になり、元住吉店のそれまでの月間売り上げ400万円を、3ヵ月後には735万円に。 更にスーパーバイザー半年、目黒・自由が丘・蒲田・元住吉・含め前年対比136%アップ後、 本部長1年。MバーガーFC店オーナーが独立支援として4,000万円を私に投資。
中華デリバリ店「中国商人」をオープン、波乱の時期が続く。
新規の地域で、マーケティング会社も調査ランク「F」マーケットには、適してないところでのスタートだったので、 借金も増える一方、従業員さんに毎月給料を支払って自分の分は、半年ゼロが続きました。
従業員みんなで、アイデアを出した結果、インターネット利用者をターゲットにしました。
その後ホームページを取り入れ売り上げを上げる。 アイデアが良く前日予約のお客様には、全品半額にて提供とチラシを作って飛び込み営業、 それが大当たり。
余裕ができたので、当時ホームページのレベルが全体的に低かったので、 2004年ホームページ制作会社有限会社グッドポジティブを立ち上げ「CMSソフト開発」 「携帯自動一斉配信ソフト開発」「ホームページデザインと運営」を手がけました。
「携帯ホームページ作成」「ポータルサイト運営代行」で年商8億6千万円。「中国商人」 を社員にプレゼントし、借金返済後、別会社株式会社ベンチャーネット会長に就任。

医療革命の会社設立

その後、FCホームページで新規事業アフィリエイトビジネスを同時に手掛ける。
日本の医療費削減、そして心の絆を深める事業を求めていきました。
今までのいろいろな人脈とのつながりで、医者がサプリメントを販売する時代がくることに直感し、 2007年12月に新しい医療に変わるほどの「救世主」になると信じ作った会社「株式会社ドクターズファーマ」 をスタートさせました。
その後、順調に営業して5カ月後、接骨院、個人、クリニックも含め全国700代理店が参加。
私たちの生活に「夢」「希望」を乗せて「物心共に豊かに」未来ある日本を作り、 また社会になくてはならない会社になろうを合言葉に前進します。
私の人生は常にチャレンジして必ず関わった事業を成功させてきました。
また新たなるチャレンジがどこかで待っているのです。
この事業を5年で完成させ、日本の医療費を「水素」で13兆円下げます。
最後まで読んでいただき、皆様を尊重し尊敬し感謝しています。
心から本当にありがとうございました。

株式会社ドクターズファーマ会長 感謝株式会社代表 川畑秀雄